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本当は会いたくもないし、愛したくもない。
帰りの終礼を終えて、さて部活に行こうといつものように廊下を歩いていたときだった。見慣れた顔で、だけど三年生の彼がこちらの場所にいるのは珍しく、俺と同学年の女子からは期待と疑問の眼差しを全力で浴びている。他人の視線などかまわず、悠然と歩く姿は跡部さんに似ていた。恋人同士だからと言っても始終一緒にいるわけではないのに、影響がでているところをみると跡部さんの素質を必然と受け取ってる彼。その事実に俺の胸の内がぐらりと揺らいだ。
彼がわざわざこの建物に来るときは、決まって日吉に用事があるときが多い。日吉を気に入ってることは百も承知だし、だからこそ俺は跡部さんではなく日吉を応援している。いや、正確には日吉さえも本心で応援できていないかもしれない。少しでも彼と近付く理由がほしかったと問われれば全部を違うと否定できない俺がいた。俺は迷いもなく、彼が好きだ。彼が、さんが、最も愛しい。
「こんにちは、さん」
いつものさんだけに向ける貼り付けた笑顔を用意して好青年を装う。彼と対峙する際はこうもしないと本音を見抜かれそうで気が抜けない。少しでも油断してしまえばさんの都合が良いように溺れてしまいそうだった。少しだけ距離をおいて、だけど確実に親しい関係を保つのが一番適切だと俺はつくづく学んでいる。彼もまた当たり障りのない笑顔で魅せてくるからお互い様なんだろう。
「長太郎」
「はい?」
「来い」
「え、あの、ちょっと」
いつもの態度とあからさまに違う彼に動揺が隠せなかった。というか、戸惑っている間にもどこへ向かっているのか手首をつかまれズルズルと引きずられる。ぐ、っと力任せに握られ少し痛かった。正直、そんなことをしても俺は逃げるつもりもないから離してくれといえばそれで解決しただろうけど、そんな一言の有無も言わせない雰囲気にただ黙って歩調を合わせる。怒っているのか複雑そうに、荒々しい彼をみたのは久々だった。大方、彼を動揺させれるものは少ないから察しがつく。
跡部さんが関与するとき以外に、彼の心を動かせるものはない。
何事もスマートに、余裕をもってこなす彼。いつもの面影なんてどこにもない。歯を食いしばって、掴まれた手首から気持ちがじわじわ沁み込んでくるような悲哀があった。視線を逸らすことなく無言でひかれる俺は傍からみたら少しおかしい。さんがどうしてこんな状態か、なんてきっと誰も知らないんだろう。いつも弱音も心配もさせない彼が、今泣きそうに強がっていることだけは確かにわかった。思考を進める間にぴたりと行動を止めた彼に俺は疑問を投げる。
「あの・・・さん?」
「黙れ。長太郎に文句は言わせねぇ」
「は、あ・・・?」
「とにかく入れよ」
クイっと親指で示した部屋は音楽室だった。予め職員室で借りたのか、準備よく右ポケットから鍵を取り出し横引きのドアを乱暴に開ける。さんは迷うことなく、一直線に太陽の差し込む窓際の席へ歩を進めた。俺も扉を閉めてから、彼の目の前にあるグランドピアノに背を預け立つ。彼が纏うのは相変わらずピリピリとした緊張感で俺から口火を切ることはできない状況だった。何も言わずに彼が外に視線を移したので、俺も窓へ目を配らせるとテニスコートが見えた。
「悪いな。部活前にひっぱりだして」
「いいえ、気にしてません」
「・・・気にしてない、ってお前。テニスも大切にしてるんだろ?」
「そうですね。でも、今日は気にしませんよ。雨だから」
「ああ、校内で筋トレか」
雨だからなんて嘘だ。だけど、こうやって言うしかない。さんの用件に比べれば、とはさすがに続けられなかった。彼の前で、本音なんてものは見せられない。ましてや今日の彼は一段と近寄り難い空気を身に纏っている。射抜くように強い眼差し、少しでも弱みを見せれば全て透き通るような生易しいものではない。もっと、突き刺すように芯から曝けだしてしまいそうな緊張感。出来る限りの冷静を装う。
「俺さ、たまにピアノって弾いてみたくなるんだ」
「それは初耳です。弾けるんですか?」
「弾けねぇよ。長太郎や景吾のような教育なんざ受けちゃいねーしな」
そういえば、と思い出す。彼の育った境遇は決して良いものではなかった。それでも彼はそんなことを気にした経験はない。彼にとって、大切なことは育ちや境遇なんかじゃなかった。ただ一つだけ、問題だったのは愛情。さんはとにかく、誰からも愛されるがゆえに愛されなかった。父から愛され、母から愛される、ただ普通の子供だったはずなのに、いつしか。さんを争って、二人は離婚し、当人の彼は一人暮らしをしていると聞いた。まあ、こんな彼の性格からも推測出来るとおり、その過去が何か影響しているわけじゃない。
「弾けなくたって聴くのは心地いいだろ?雑音なんか一つもない世界が、綺麗で、羨ましくて」
「羨ましいんですか?」
「ああ」
見惚れるようにピアノを眺める目線はいつもと違う。寂寥感を含めた、慈しむような儚さがった。俺を除く誰一人、跡部さんだってこんな表情はみたことがないだろう。だって、これは俺にしか見せたことがない表情。俺限定。彼の意思と反して、さんの身体が甘えたいと心が折れそうなときに、俺に頼るときの顔。これを嬉しいと思ってしまうのはいけないだろうか。彼の弱音を受け止めるのは俺だけだと、満足していいのだろうか。
「こんなに澄んだ音が、羨ましいんだよ」
「なんで、」
「柔らかいのに甘い恋しさが、眩しい」
「なんで俺に言うんですか」
成立しない会話にどちらも不満はなかった。不満があるのは俺だけで、俺はさんの言葉を必死に止めようとしていた。なんだろう。愛しいのに苛立つ。狂おしいのに甘すぎる。泣きたいのは彼なのに、なんで俺が泣きそうにならなきゃいけないのか。募る不満も隠さずに、ピシャリと言い放った言葉は本心だ。一呼吸おいて、彼は珍しくも眉尻を下げながら微笑んで答えた。
「だって、長太郎と同じだから」
「え?」
聞き返してもただ彼は笑ったまま、俺の問いに答えるつもりはなさそうだった。いい意味で捉えていいのか、悪い意味で捉えていいのか、この人は本当に曖昧すぎる。せめて、ハッキリと言ってくれればいいものをいつも寸止めなのだ。だから俺もこの感情に捕らわれたままだ。一度捕まったら逃げられない。耽美すぎる誘惑。俺が困惑しないとでも思ってるのか、俺が怒らないと思ってるのか、俺が優しいと思ってるのか。多分、全部違う。俺はさんが好きで、彼もそれを知っていて、尚のこと俺を相談相手にするんだ。俺は、何も言わない。何も言えない。
「なあ、どうしたら景吾のことを真っ直ぐ愛してやれると思う?」
「・・・俺がさんを愛すみたいに、ですか」
「それしかないだろ」
「随分、残酷なこと聞きますね」
「長太郎しか聞けないからな」
ほら、わかってた。結局、彼は決まって跡部さんのことしか考えてない。淡い期待の幻想なんてない。
「そんなの決まってますよ。答えはありません」
「ない?」
「今更そんな純情な心、あるわけないですから」
「だったら俺が、その純情な心になれるよう頑張れば良いんじゃないか?」
「他人事みたいに話しますね」
思ったことを率直に告げると、さんはただ何も言わずに笑い返すだけだった。その表情が泣きそうに見えるのは俺が彼をとことん見続けているからだろうか。顔だけで「そう、俺は自分も他人だ」と言ってきそうな勢いなのに、心では悲しくて辛そうな微笑み方だった。そういう顔をさせる張本人は、いったい誰なんだ。そういう思いをさせるのは、跡部さんしかいない。後にも先にも、思いつくのも、妬んでいるのも、劣等感を持ってしまうのも、全部全部全部、跡部さんだけだ。(俺は―――、彼に何1つ影響を与えられないから)
「また跡部さん関連ですか」
「・・・」
「跡部さん、なんか」
「長太郎」
黒く渦巻く心境は無視できるほど弱いものではない。むしろ本音を率直に口走る自分は、たとえさんが苛立ちを隠さず低く唸るように睨み返した視線を感じても、悪いなど一切思わなかった。彼に影響するものが羨ましい。嫉妬。そう、これはただの嫉妬だ。俺はひどく彼に劣等感を持っている。その鋭い視線でずっと射抜かれたいなんて思ってしまうのも、恋人として跡部さんには敵わないと諦めているから。
「すみませんね。俺、これでも嫉妬深い人間ですから」
「だろうな。見てたらわかる」
「だったら俺、もう部活行きますよ。そんな辛抱強くもないので、これ以上妬かせないで下さい」
サラリと悪気もなく言ってのけたさんは本当に酷い人だ。性格が歪んでるなんてもんじゃない。歪曲しすぎてる。性格が破綻してると言ってもおかしくない。それでも、好きだ。俺はさんが好きで好きでやっぱりこうして彼のもとに来てしまう。彼の誘いには断れない。だけど、なきたい。なんでこんな人を好きになったか、俺だってわからないままだ。逃げるようにくるりと後ろを向いて扉に手をかける。心が冷たくなっているような気がした。泣きたいからか、冷めてるからか。
「ああ、そういや初めてお前と会ったときから思ってたけど」
唐突な彼の言葉にやっぱり振り向いてしまった。再びみた表情は、普段宍戸さんや忍足さんに見せるような強気の笑みでさんらしさが戻っていた。いったいどれが本物の彼、なんて何一つないのだろう。だって全部が彼だから、何も間違っちゃいない。だから俺は、俺だけに見せるさんだけを愛すことに決めた。それ以外の彼を愛するつもりはない。
「お前みたいなヤツは大嫌いだけど、長太郎は好きだぜ」
「俺はあなたみたいな人、条件つきでも願い下げですよ」
好きだけど、大嫌いと言葉がこの世で最も似合う人。
「さん。あなたが俺のことを好きなら、俺のために死ねますか?」
「じゃあお前も俺のために死ねよ」
いつもこうやって諦めさせてくれない彼に泣きたくなったのは言うまでもない。「無理ですね」と口に出したつもりだったのに、カラカラの喉は言葉を繋がずただ空気が入ってくるだけだった。無言で扉に手をかけたまま、数十秒静止を続ける俺はひどく滑稽だっただろう。それを咎めるものは誰もいないにしても、彼といれば余裕なんかない自分が始めから愚かだった。
「無理だなんて、俺が言えると思ってるんですか」
にこりと無理して笑った顔は、きっと雨雲と変わらない表情だっただろう。
上手な恋愛の裏切り方
(結局のところ、俺は一度だって好きとも愛してるとも言わせてもらえない)
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